(昭和47年12月執筆) アメリカの自然保護、
第二章 アメリカの自然保護の歴史的概観
第三節 汚染問題の深刻化する大技術発展期(20世紀中頃〜1960年代中頃)


 

 
第三節 汚染問題の深刻化する大技術発展期
(20世紀中頃〜1960年代中頃)

  第二次世界大戦にアメリカが参戦すると同時にアメリカの戦時体制はより強化されていった。政府は巨額の投資によって大規模な国営工場を建設し、兵器を中心に工業は飛躍的に活発となった。この戦争中、アメリカに於ける環境行政は水中生物、港湾、ドック、レクリエーション施設などに被害を与える油を沿岸水域で船から投棄することを禁じた1942年の油汚染法の立法が主なものであった。
 第二次大戦中の軍需生産のための技術革新が国家によって大きく補助されたため、戦争後には新技術による設備更新を経て資本投下の拡大、景気促進へと進んでいった。一般民衆は戦争によって縛られていた消費欲を再燃させたため、経済は高揚し、消費ブームのさきがけをつくるに到った。また、空襲を受けることのなかったアメリカの生産設備は、戦後ただちに社会の需要に応えることができ、また工場も次第に新しく近代化されていった。
 第一次大戦前後は石炭を中心とする燃料によっていたが、第二次大戦前後から発達してきた航空機、自動車また石油産業などの躍進により、石炭から石油へという主要燃料が転換したことなどもこの例にあげられる。(この燃料の転換によりそれまでの煤煙中心の「みえる煙」の規制だけで良かった大気汚染対策もより複雑化することになる。)
 以上のような様々の要因により、戦後は、それまでにはそれ程ではなかった汚染問題が広域化、多様化、深刻化し大きくクローズアップされてきた。また、それと反対に、戦前までにさかんになった資源保護の活動は、戦後の異常な好景気と冷戦による軍事支出の増大によって低調になっていった。このことは言葉をかえて言うなら、国民が幸福感を味わい差し迫っている国内問題から目を外に向けられたからであると言うこともできる。
 
 戦後の好景気、消費ブーム、工業とテクノロジーの発展に伴って深刻化した汚染問題にいち早く具体的な処置を行ったのは、カリフォルニア州である。1947年の大気汚染規制地区法(州法)にのっとり、同年カリフォルニア州大気汚染規制地区(APCD)を設置し、郡(カウンティ)を単位として地方的裁量において空気汚染を規制するというのがそれである。同州は1955年にも港湾地域大気汚染規制法により、サンフランシスコ湾地域汚染防止地区を設置し、他の地域よりも特殊な状況下にある同地域(恒常的な気温逆転層が存在するので、州内の他の地域とは異なる。)における大気汚染を規制することになった。
 水質汚濁に関しては、1948年に連邦政府が最初に水汚染防止に乗り出した総合的な法案である水汚染規制法がある。これは汚染防止の責任は第一に各州にあるとし、連邦政府は研究、広報、訓練や技術上の援助などをすることを明らかにしているが、議会においてこの法律所定の資金の歳出予算の承認が拒否されたため、事実上力を持たなかった。
 
 この年1948年10月には、アメリカの汚染史上でも画期的な事件が起こった。それはペンシルヴァニアのドノラで三日間スモッグが続き、市の人口の約半分である5910人が病気になり、20人が死亡するというものであった。しかし、これに対する連邦的な処置としては時のトルーマン大統領が1950年になって、合衆国空気汚染技術会議を開くにとどまったが、1952年に有名なロンドンのスモッグ事件が起こったり、1955年にロスアンゼルスでもスモッグ事件が起こるなど、ますます深刻化する大気汚染問題に対処するため、アイゼンハワー大統領は1954年に空気汚染に関する省間特別委員会(原子力委員会・国防省・内務省・全国科学基盤省)を設置し、1955年には空気汚染規制に関する最初の連邦公法である大気汚染防止法を通過させた。(この法律は59年に改正され、60年には新たに自動車排気ガス規制等を盛り込んだ法律にとってかわられ、1963年にはニューヨーク大気汚染事件などもあったため、本格的な大気汚染法Clean Air Actが制定される。)この間1954年にニュージャージー州、マサチューセッツ州で大気汚染防止法が制定された。
 ところで、水汚染に対する最初の連邦法である1948年法は、先にあげたような難があったため、1956年にそれを修正した法律ができた。この法において、連邦政府は役割を大幅に広げることになり、地方自治体が廃棄物処理設備を設置するにあたって、国が助成金を与えることを制度化したり、二つ以上の州にまたがる汚染の場合には連邦政府に監督の権限が与えられるなど、進歩した面は見られたが、いまだその権限も制限されたものであり、本格的な改正法は1965年法を待たねばならなかった。
 1958年になるとアイゼンハワー大統領は自ら第一回大気汚染防止国家会議をワシントンに招集し、技術、医学、行政、立法等の専門家が討議を重ねた。この会議は以後四年毎に開かれ今日に到っている。このように、汚染がより深刻に、より広域に、より複雑になっていくに従って連邦や州ではその状況に対処する法改正を何度となく行っていくがどれも最も優れた決定的な法律というわけにはいかず、根本的に汚染問題を無くすることはできなかった。
 さて、こうした大気汚染、水質汚濁といった目で見、直接的影響を感じることのできるnuisanceとならんで、全く新しい目に見えぬ恐ろしい汚染---放射能の大気・水・土壌への汚染---がでてきたのも戦後のこの時期である。
 
 1946年に軍事上、科学上、産業上の原子力および核エネルギー開発のための巨大な国家的な計画を扱うことを目的として、原子力委員会がつくられた。そして1951年までに合衆国は16回、ソ連は13回の核実験を行い、1952年にはイギリスが最初の核実験を行った。これらの実験は軍事機密に関するものであったので、原子力委員会の発表もただ核実験が行われたということ、および、爆発による放射能の影響は局地的で害はないという簡単なものであった。また、核兵器競争について公の場で議論することは、「冷たい戦争のヒステリーとマッカーシズムによって封じられていた。」(B.コモナー) しかし、1953年にはたび重なる実験によって自然が変化していることに科学者が気付きはじめ、公にはされなかったが合衆国の科学者の間ではどんどん情報が広がっていった。そこで、各地で学者達が放射能を測定した結果、至る所で空気、雨、土壌、食糧および水が核実験の放射能汚染を受けていることがわかり、公式には秘密であったにもかかわらず原子力がはじめて環境問題として登場してくることになった。特に放射性廃棄物の中でもストロンチウム90は環境中においてカルシウムと一緒に行動するため、土壌中から植物体内を経て、されに食品に入り込み、最終的には人間の体内に入り込んで集積するという深刻な問題になった。学会でも急にこの放射性廃棄物について憂慮するようになったため、1953年も終わりにはとうとう公の問題となった。その後1954年3月には原子力委員会が太平洋で行った核実験の際に日本の漁船福竜丸の乗組員が放射性廃棄物を浴び、大勢の乗組員は重大な放射線障害を受け、中には死者も出るという大事件が起こってしまい、ますます深刻に危機意識をもって世界中で討論されるようになった。1963年になると世界中のこうした意見を反映して合衆国上院はアメリカとソ連という二つの巨大な核保有国による大気圏内の核実験を終わらせる制限付き核実験禁止条約を圧倒的多数で批准した。これは結果からいうと地下核実験を認めている(禁止していない)など、制限の緩やかな停止条約であったが、画期的なものには違いない。
 
 こうして戦中から戦後にかけて、テクノロジーはその行き着くところを知らないほど発展し、それに付随してあらゆる種類の環境汚染問題がたてつづけに表面化しエスカレートしてきた。政府のそれに対する政策は汚染をくい止めるための立法と法改正がその主なものであり、必ずしも長期的なヴィジョンで根本的に汚染を絶やす政策をとることにはならなかったので、テンポの速い汚染の悪化に追いつくこともできず、ほとんど毎年場当たり的に何らかの法改正を行っていくだけで、法の執行も強制力をもたなかった。一方、汚染の被害を受ける住民側も、積極的な反対運動を起こすのは、特定地域の住民だけで、広く強力な市民運動にはなりえず、訴訟を起こしても、企業側の力が強く敗訴になることが多かった。
 
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