(昭和47年12月執筆)アメリカの自然保護、
第二章 アメリカの自然保護の歴史的概観、
第一節 自然との闘いと破壊の歴史(17世紀初〜19世紀末)


 

 
第一節 自然との闘いと破壊の歴史
(17世紀初〜19世紀末)

  17世紀にヨーロッパ大陸から新大陸へ移住してきた“アメリカ人”たちは、ヨーロッパ大陸のような人間の順応しやすい穏やかな気候を捨て、夏は極度に暑く、冬は極度に寒いというように、季節の変化が急で気温も日によって、また、時刻によって激しく上下し、また、ハリケーンなども度々襲って来るという荒々しい風土に適応しなければならなかった。そうした厳しい自然の一方では、国土は利用度が高く食料となる獣肉や野生生物は無尽蔵であったし、樹木も豊かに生い茂っていた。彼らは生活の基盤が安定するまで、野生のシカ類やバイソン、野生シチメンチョウやその他の動物類を食料または衣料の原材料として捕殺し、利用していた。
 アメリカ大陸の開拓のエネルギー源は野生鳥獣によって支えられていたという経済学者がいるという話だが、それだけ当時のアメリカ大陸での野生鳥獣の捕殺量が多かったのである。こうした中で、1629年には早くもオランダ植民地であるニューネーデルランドでは野生鳥獣の捕殺に対する規制がはじめて法律化されたが、これは法律としてほとんどその意味をもたなかった。イギリス政府はやがて1711年、1722年、1729年の3回にわたって王領地の白松の伐採を禁止する法律を実施したが、植民者が英政府の束縛を極端に嫌ったこともあり、全くこれを無視した。また、1763年にイギリス政府がアパラチア山脈西側の土地を毛皮の交易とインディアンのために残しておこうとして、植民者の山脈西側への移住と活動を禁止した内容の布告宣言法が発せられた時も土地会社、土地投機家、開拓者達の激しい反対にあって、政府は境界線をさらに西へ移さなければならなかった。このように、イギリス政府に対しては強く反抗していたアメリカ人達は19世紀に入ると野生動物の保護を手始めに規制の必要を感じ始めた。
 1818年にマサチューセッツ州で、住民に対し食糧として、また、天与の害虫駆除役である鳥類を不当な時期に無秩序に捕殺するのを防ぐ為、鳥の種類、特定の期間を定め捕獲禁止するという州法をつくった。本法はアメリカで狩猟鳥と非狩猟鳥を区分し、捕獲を時期的に制限した最初の法律であった。その後ニュージャージー(1820年)バージニア(1837年)ニューヨーク(1843年)などのように各州でもこの法律と同程度の内容をもった法令ができたり、夜間の狩猟、銃口径の制限などを定めたものなどが相次いでつくられていったが、各州とも制限範囲はごく限られた地域にしか適用されておらず、規制力も強いものではなかった。
 1844年にになると、狩猟鳥獣類の温存をはかるために、狩猟者の団体でも保護組織がつくられたり、ニュージャージー(1850年)マサチューセッツ(1855年)サウスカロライナ、ミネソタ、ミシガン、アイオワ、ペンシルヴァニア、ニューヨーク、ニューハンプシャー他ニューイングランド各州(それぞれ1864年。またこの年、ニュージャージー州はさらに新しい規制を定めている)に広範囲にわたる多くの小鳥類の種類を含んだ野生生物保護のための捕殺を規制した法律がつくられたりして、少しずつその規制なども充実の方向をとった。そうした資源保護への関心は森林などの国有財産の崩壊として受け取られ、1872年3月にグラント大統領によってワイオミング州北西部のイエローストーンが公共信託地として残され、どのような私的請求の対象からも取り除かれることになり、世界でも初めてという国立公園という概念がここに生まれたことは、保護の観点からして特筆に値すべきものである。
 
 さて、この時代にいかに大量の野生鳥獣が捕殺されていったか、その実態を知るには、この時期にアメリカで絶滅していった、または絶滅に瀕していった鳥獣類がいかに多いかを見れば容易に想像のつくことである。それに対する規制が甘いものであったことがそれをより容易にさせてしまったのである。
 本論を離れる恐れはあるが、私はここであえて、バイソンとリョコウバトの運命を見るスペースを割きたい。急激に動物を減少させていき、そのことから彼ら自身が一種の危機感を持って動物資源を増殖させて利用するコンサヴェイションへと向かっていったと考えることができるからである。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、バイソン(アメリカ野牛)は、東西はニューヨークからオレゴンまで、南北はカナダからメキシコまでの広大な地域に棲んでいた。それが、19世紀の初め頃には、ミシシッピ以東からは姿を消した。開拓者達と鉄道が西へ向かうにつれて残ったバイソンの生活範囲も徹底的に縮小されていった。移住者が大陸に足場を築こうと必死の努力をしていた頃、バイソンは控えめに見積もっても6000万頭くらいはいたらしい。ところがその後の殺戮につぐ殺戮で減少の一途をたどり、1893年にクリーブランドが二回目の大統領に就任したときにはわずか1090頭位しか残っていなかった。その大部分は1820年から1889年までの70年間に殺戮されたものである。この殺戮は、1870年代の中頃からは組織的に行われるようになり、年平均狩猟数は25万頭に達し、時には一ヶ月でそれくらいの狩りをしたこともあったという。(食肉用、毛皮用、インディアンの勢力をそぐための政策、慰みものにするため。)その結果、1906年までにバイソンの天然生息地はイエローストーン公園内とカナダのアタバスカ湖付近の小地区のみになってしまった。
 カササギガモ、ヒースヘン、オオウミガラス、カロライナインコなどの鳥類も19世紀中頃から末にかけて相次いで絶滅していった。中でも有名なリョコウバトは、1850年代からこのハトが絶滅するまでの間、リョコウバトをとることはバイソンと同様に、一つの産業として栄えていた。何万人という人間がその産業に携わり、何万ドルという金が動き、数十億羽のリョコウバトが殺された。ハトの殺戮はきわめて効率よく行われたので、空を暗くするほど大群でいたというリョコウバトもきわめて短期間のうちに数を減らし、1870年から1880年の間には特に急激に減ってしまった。1890年になるとリョコウバトはわずかに2〜3羽が動物園に飼われているだけになり、1914年についにその中の最後の一羽も死んでしまった。
 
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