(昭和47年12月執筆) アメリカの自然保護、
第二章 アメリカの自然保護の歴史的概観
第二節 自然保護のあけぼの(19世紀末〜第二次大戦前)


 

 
第二節 自然保護のあけぼの
(19世紀末〜第二次大戦前)

  ヨーロッパから新大陸に渡り、自然と闘いながら西へ西へと開拓を続けてきたアメリカ人も、19世紀の末には太平洋岸に到達し、“辺境”も急速に無くなっていった。そのフロンティアの消滅と、ちょうどその頃盛んになってきた産業革命後の工業化とがアメリカの環境に対する姿勢に変化を与えることになった。1872年のイエローストーン公園誕生は、まさにこの変化の先駆けと見ることができる。特に1880年代以降はこの問題に対する規制・行政の質が変化してきたので、アメリカ合衆国における自然保護政策のあけぼのと言っても良いだろう。
  1883年に主として海鳥類を装飾用として捕殺するのを防止するため16人の委員からなるアメリカ鳥学者連盟(AOU)ができ、当時あった39州のうち19州で保護鳥種を定め捕獲を規制する禁止処置がなされた。これは一般人への啓蒙などがゆきとどいていなかったため事実上放任状態に近く保護鳥獣類も濫獲されていたが、連盟成立を踏み台として翌1884年に連邦政府の農林省内に鳥獣学を扱う部門=農林省応用鳥学調査室が設定され、研究機関並びに行政機関として活躍することになった。これは1905年には生物研究所に発展する。
 一方アメリカ鳥学者連盟も活発に活動を継続し、1886年には同連盟で作成した非狩猟鳥類の保護に関する模範的な法案をニューヨーク州での狩猟法として規定することに成功した。これはAOU Model Lawと称されたもので簡潔で実用性があり、その後多少の修正が加えられたが20世紀初期まで活用され各州での立法の基準型として採用され、発展していった。さらにこの規制をより広く一般的にゆきわたるような啓蒙運動を促進するために16人の構成員からなるオーデュボン協会をつくり、機関紙Forest and Streemを発行し会員の増大をはかった。このオーデュボン協会は今日においても全米での自然保護運動の積極的推進者となっているのである。
 
 アメリカの工業化を反映してシカゴにおいて最初に大気汚染規制がなされたのは1881年であるが、一方、今日の水汚染防止の源も1886年に議会で成立した「ニューヨーク湾にゴミその他航海の障害となるようなものを投棄してはならない」という連邦政府の法律に遡ることができる。この法のあとは1889年の「河川港湾法」が続いたが、これは街路や下水から流出する汚水を除いてはいかなる廃棄物をも船や生産施設から船舶が航行する水域に投棄、沈殿してはいけないと定めている。初期のこうした規制は主に船の航行の支障となるものに対するものであったので、今日の規制とは内容的に大きく異なっている。
 1891年に出された保安林条例は、国立公園のためばかりでなく、公有地を「保安地」として確保する権限を大統領に与えるというものであった。その結果ベンジャミン・ハリソン大統領は総計1300万エーカーの保留地を確保し、グローバー・クリーブランド大統領はさらに2000万エーカーを確保した。そして、セオドア・ルーズベルト大統領にいたっては激烈な反対にあいながらも、1億3200万エーカーを確保することになった。
 また、1897年に基本条例を制定することによって、国有林は河川流域を保護し、「合衆国民の用途と必要に応じて材木を永続的に供給」し続けることのできる強固な足場を固めることになった。これによって年々の許容伐採量が樹木の生長増加量を超えてはならないという基盤の上に国有林制度が成長発展していくのである。
 
 1900年には19世紀の中頃イギリスからスズメが輸入され、全国で大増殖をし、農業に害を与えるようになったことと、国内で装飾用に鳥類を捕殺することが禁止されはじめたので外国から輸入する形勢が強くなったことに対処する目的で、Lacy Actという法律が連邦政府によって出された。それは農林省の許可が無くては外国の動物を合衆国内に輸入したり国内での移動運搬をすることが出来ないという内容であった。
 ちょうどこのLacy Actが制定された年には、州連合でのオーデュボン協会が結成され、国家的な地位での委員で構成されることになった。その上1905年にはその組織の綱領がニューヨーク州で正式に認められ、各州にまたがる協会の中心的機能を持つようになった。委員会が、ここまで発展してくる間にも、カモメ類アジサシ類の集団繁殖地を専任の監視人を雇って保護し、報酬も予算化され、当時で年間12000ドルを支払うような処置がとられた。これはアメリカでの鳥類保護区制度と鳥類の保護(bird reservation)の在り方、考え方の最初の典型を形作ったものとして意義深いものであった。その後鳥類保護区をつくる基本的な考え方は保護の対象になる鳥種の生態に応じて保護区設定の地域を選定するようになるまでに発展していった。また、1905年パリで行われた国際会議でヨーロッパ大陸での鳥類保護思想が統一され、実行されはじめたのだが、アメリカもその会議に参加したことによって多分にヨーロッパの進んだ保護の状態に影響を受けたことが想像される。この国際会議やオーデュボン協会の働きにより、1895〜1905年にわたり国際的にも国内的にも世論が強くなり、それが一つの刺激となって再び活発な運動が展開された。しかし、1905年の夏にオーデュボン協会の一会員がフロリダ州のオイスターケイで監視中に、鳥類の羽毛を採取している商人に射殺されるという事態が起こっており、当時の鳥類保護事業がいかに困難であったかを物語っている。
 
 1901年から1909年の任期中、自然保護に大きく貢献し続けたセオドア・フーズベルトは1902年に新土地法を制定し、連邦政府が灌漑用のダムや用水路の建設を直接担当することになった。(新土地法は入植者が1エーカーにつき、20〜30ドルの水利権使用料を払えば灌漑設備の整った連邦所有地を80エーカー要求することができるというものであった。)その結果、西部の荒地の開墾が行われ、収入は灌漑事業の資金として積み立てられた。この大規模な開拓事業はアメリカの資源保存の重要な基礎となったのである。
 大統領は新たに森林局を設定し、不法な伐採の取り締まり、山火事の防止、植林事業の積極化にあたらせた。この森林局長として選ばれたギフォード・ピンコットは、森林の破壊が土壌の流出、土砂の河川水路への堆積、洪水の誘発など重大な問題として跳ね返ってくることを完全に理解していたという。これによって資源保存計画は組織化され、1億5000万エーカーにものぼる国有林を保護区として、そこへの立入禁止と譲渡制限とが決定された。
 大統領はまた、1908年ホワイトハウスで自然保護の問題を討議するため、国・州・自治体の役人・実業家・各分野の専門家による会議を開催した。その会議で可航河川の流水量調節、森林伐採の制限、山火事の防止、植林事業、地下資源の採掘権とは別にしてその地上権を公有地に譲り渡すこと、さらに木材・石油・石炭・天然ガス・燐酸鉱物などを産出する国有地への立入の取消など大統領の土地政策は精神的な支持を受けた。また、大統領は国有天然資源の目録を作成するために、資源保存委員会を組織した。任期の終わり近くには連邦の所有する出炭地、燐酸鉱物産出地、水力利用が可能な場所に隣接する土地などでは大統領の行政命令によって立入を禁止された土地が数百万エーカーにものぼった。
 
 セオドア・ルーズベルト大統領が任期を終えると、資源保存、自然保護の運動もやや下火にはなったものの、引き続き成果をあげていった。
 1909年に制定されたモンデル方では、自作農場と乾地農業を奨励するため、樹木もなく、地下資源も存在せず、灌漑も施されていない西部の特定の乾燥地域に入植するものは320エーカーの土地を取得しても良いことになった。その年に議会は国有地の耕作、木材、地下資源をそれぞれ分割して処分することを認め、1910年には議会の決定により国内の地下資源を調査し、最善の開発方法を勧告する任にあたる鉱山局が設けられた。
 1911年になると、Weeks Actが制定され流域保護の必要な東部の森林地帯を買収することを規定した。これは水の供給保護問題を州間の合意にゆだねただけのものであったので、規制の効果はあがらなかったが、今後、森林調査を推進し、州および個人の森林地帯の管理を援助する目的でその他の諸法律が立案されていくきっかけをつくったものとして意義がある。
 19世紀の終わりに、ミシガン湖の上水道取水口を下水が汚したために、シカゴ一帯にチブスが大流行したなどの事件があり、衛生に関する本格的立法が要望されていたところ、1912年に公衆衛生法ができ、水によって媒介される伝染病の研究と水汚染の調査の必要を定めた。野生生物関係では1900年のLacy Actに規定された内容をさらに具体化した法律としてTariff Actが1913年に制定された。これはゴクラクチョウ、シラサギ類の羽を装飾用に使用する目的で輸入すること、また、ワシ・タカ類の羽、頭部、翼、尾羽、剥皮したもの、またカモ類の剥皮したものなどの輸入を禁止した。但しダチョウの羽、家禽の羽、研究材料としての鳥の羽の輸入は認められていたが、羽毛商に対しては致命的な打撃を与えるもので、装飾用に小鳥類を捕獲したり、その羽を利用するのが不可能な状態になったのは事実である。本法律に次いで連邦政府がつくった重要なものはカナダとアメリカとの間に渡り鳥に関する協約を結ぶのに成功し、1918年に「渡り鳥の取り扱いに関する条令Migratory bird Treaty Act」を成立させたことである。本協約で捕獲しても良い鳥類を定め、捕獲の個体数を制限し、カナダとアメリカの両政府間でそれぞれその目的に添って国内の諸規制を改新したのである。結局アメリカでこのような体制ができあがったのも1905年にパリで開催された国際会議にアメリカが参加し、その国際的影響と国内的自覚とが基礎になっていると言うことができよう。
 1920年には石炭石油・天然ガスを産出する土地は連邦政府が永久に保有することになった。水力発電の重要性が増すにつれて水力利用が可能な国有地への立入が禁止されるようになり、さらに水力委員会が設けられたことによって、全ての水力発電計画の認可調整の権限がこの委員会に与えられた。
 1930年には、これにかわって州際通商委員会と同じ取締り権限をもつ連邦電力委員会の設置が議会によって認められ、一層効果があがった。
 
 1929年末のウオール街での株の大暴落を端緒とした1930年代の恐慌はアメリカ社会を不景気のどん底にたたき落としたが、F.D.ルーズヴェルト大統領のニューディール政策では資源保護計画を推進し、再び資源保存の運動を高めることとなった。これは、公共事業における失業者救済とともに両面をなしていたので、内政問題として無駄がないばかりでなく、非常に有益なものであった。
 1933年3月に失業青年を救済することと国有林などの自然資源を保護することを目的とした民間植林治水隊を創設する法案が提出された。(これは後により大規模な一連の失業救済機関をつくり出す皮切りとなった。)
 この隊員はキャンプ基地から全国どこへでも出かけていって活動したが、その仕事は森林の伐採、植林、排水作業、土壌流出防止、道路の建設などであった。1930年代中頃の数年間は日照りが続き、大草原の表土の大部分が砂嵐で吹き飛ばされ、特に山岳地帯では土壌浸食が深刻になったので連邦政府は西部の黄塵地帯から吹く風を防ぐためカナダからメキシコに至る幅100マイルの樹林帯を造る事業にとりかかり、1945年までにおよそ21万エーカーの防風林ができたというが、そこで働いた治水隊の仕事はめざましいものであった。1941年までに実に275万人の青年がこの民間植林治水隊に参加したということである。
 1933年、公共事業の多くが私企業で経営されていたことに対する一つの国家規制を与えるためと資源保護の目的で、テネシー川流域開発公社(TVA)が設立された。TVAはそれまで洪水を起こして大きな被害をもたらしていたテネシー川とその支流に6つの巨大なダムを建設し、低コストの電力を生産したり、化学肥料を生産したり、、可航河川と湖とを結びつけたり、また、洪水を防ぎ土壌の流出を緩和させるなどの仕事を行った。このTVAはニューディール政策に基づいて行われたコロンビア川、コロラド川、ミズーリ川などにかけられたダム以上に多様な働きをし、政府の経済社会計画の模範と考えられるようになるほどであった。
 1936年の土壌保護法や1938年の農業調整法は、農業生産の縮小と農産物価格の引き上げをその主な目的として制定された。生産を縮小させた農家は連邦政府から報奨金を受けることを保証された。しかし、このために農家は作物の植え付け削減と土壌の肥沃化の促進、土壌流出の防止、耕地の有効利用について政府と協力して入念な計画を立てることを要求された。この政策の実施にあたって再入植局、農場融資保証局、土壌保護局といった専門機関が設けられ、貧しい農家に科学的農業経営の基礎技術を普及させる仕事を担当した。(結果として農業調整法による播種面積の縮小は大農経営を利することになり、中小農民特に南部の小作人はしばしば破産状態に陥れられた。)
 1937年には1918年のカナダとの間で結ばれた協約に続いてメキシコとの間にも渡り鳥に関する協約が結ばれた。この協約は明確に有益鳥種を科学的根拠に基づいて分類したはじめてのものであった。
 こうして再び積極的に行われるようになった資源保存の運動も第二次世界大戦に突入することによって一時中断せざるを得なくなり、ここにアメリカ自然保護のあけぼのの時代は幕を下ろすのである。
 
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