最近の或る楽しみ
 
(1972年12月発行「エトピリカ」第17号掲載文)


荒川洋一

 ある日山中湖で早朝のコーラスに感激し、ある時カスミ網にかかったカワラヒワを放すときに噛まれた痛さと、網をかけた人間への悔しさに涙ぐみ、ああ!何ときれいなんだろうと叫びたい衝動に駆られたり---野鳥の会に入会してもう最高学年になる。
 
 昨年は私の大学生活にとって一つのエポックとなるような気がする。というのは、Life Birdが200種を突破したからである。
鳥の識別力をつけるのが何よりも基礎づくりで重要なことであると考え、それを養成するためにあちらの山野こちらの海川を歩き回った。
目の前をスーッと鳥が横切る。1、2、5、9・・・ビンズイの親子混群13、漂行準備中?
上を何羽かの鳥が羽ばたく。30±5、ユリカモメ、ねぐらへ集結!
500m前に点が浮かぶ。あ!チョウゲンボウ。停飛中。
これだけの識別力が着いたのも昨年まで一種でも多く呑み込んでやろうと粘って努力した結果であろう。
 
 私は鳥の識別力をつけることに力を入れ、「一種でも多く」と指折りながら、山河海嶼を歩いた「過去」の持ち主である。だから今日、何百種まで後何種といって焦っておられる諸君の気持ちはよく判る。でも私は、そういう諸君に最近の私の楽しみをお教えしようと思う。私は、大学二年の時から母校(早稲田中・高等学校)の林間学校に野鳥講座なるものを開講してもらい、自ら講師として可愛い後輩達に野に棲む鳥達の美しさ、素晴らしさを語ってきた。今年で三年目を迎え、悲しいことにこれが最後になるのであるが、私は、この仕事をやってきて、今とてもよかったなと改めて考えているのである。
 
 まだ2年の時、はじめて後輩の前で話をしたのは、ホトトギス科の鳥達と鳥の声の”聴き成し”についてうまくこじつけたものであった。100人ほどの生徒と10人ほどの先生方の前でドキドキする胸を鎮めつつ話した時間は約一時間(最初の予定20分)であった。話している最中は無我夢中であったが、その時私を驚かせたのは、生徒のあまりに熱心な顔つきだけでなく、予想以上に先生方が真剣に聞き入って下さったことである。いつもはがやがやとしがちな夜の林間講座も、あの時は深閑として私の声がそれ程広くないホールに響いていた。二百数十の眼が私の示す写真や絵に注がれ、まるで生まれてはじめて聞かされる神秘の世界に見入っているかのようであった。鳥のレコードをかけ、「一筆啓上つかまつり候」と自分の耳でも聞こえることを知るとウワーッというような発見の歓声を口々にもらした。いつもは職員室で雑談している先生も、あの時は全員ホールに集まって、腰掛けたり立ったままだったり、まちまちの姿勢で、真剣にこちらを見ていて下さった。
 
 それから4年まで、私の鳥の話を聞いてくれた者は高三から中一まで約600人もいるのである。私の話はどれをとっても君たちには目新しいものではない。だが、小鳥たちのほんのちょっとした習性のおもしろさを話すだけで、彼らは全く未知の世界に入り込むことができるのである。教育制度の欠陥、政府の教育行政のひずみを云々する気はない。私が言いたいのは「彼らは自然の素晴らしさをこれっぽっちも知らない」ということである。先生方も含めてもいいかもしれない。
 
 山を歩くとき、自分の足下にあるのは山ではなく坂道なのである。山を歩いて家に帰ると、道ばたに咲いていた花がどんな花だったのか、鳥などいたのか、全く思い出さない。頂上に行ったら、風が涼しかった。下の町並みはきれいだった。遠くに槍や穂高まで見えた。あ、そうそう、富士山も見えた。・・・私自身、こんな程度だった。景色しか頭に残っていないのである。正直な所、信州の入笠山の林間での鳥の記憶は全くない。実際に大学一年の時に鳥を見る目的でこの山を訪れたときには、入笠にも鳥がいるのかしらという疑問が頭にあったのである。勿論鳥はいた。そして調べていくに従って、この山の特殊性がだんだんわかってきた。そこで母校の後輩達にこの山にも鳥がいるということを、そして野の鳥達の生活は興味深いことを、気をつけさえすればいつでもその楽しさを引き出すことができるということを話したいと思い、先の講座を開いてもらうように先生にお願いしたのだった。
 
 私が山で鳥の話をして3年がたった。私はもうドキドキしなくなったし、話す時間も自在に切れるようになった。私は進歩した。しかし、生徒も進歩してきた。そして先生も進歩してきた。初めは全くの無知であった先生方も続けて私の話を聞いていらっしゃるうちに(のべ9回になろうか)鳥の世界をつかむことができてきたのである。一方生徒の方は、毎年大部分が新参者なのだが、マスコミで急速に取り上げられるようになった自然保護の問題に一応興味を持ってやってくるので、鳥の話の合間にそうした話をしても吸収が早くなった。私はこうして林間学校で野鳥講座を持ち、山を歩きながら鳥の世界を教えることができたことによって、単に鳥のライフレコードを増やすことからは得ることのできない多くを得ることになった。たまに母校を訪れると「荒川先輩」「鳥の先輩」「野鳥の会の先輩」といって私の周りによってきてくれる。もうこちらが忘れてしまっていても、彼らは覚えていてくれて、自分がいかに珍しい鳥を見たとか、先日飛んでいた鳥はなんていうのかとか、自分の飼っている鳥がどうしたとか、口々にしゃべりまくるのである。
 
 鳥の話をすることによって、自分自身新しい世界を紹介する喜びを得、また、話した後で、鳥の先輩として彼らの心の片隅に残っていることのできる幸せは、おそらくこれから先は持つことが困難になるだろう。それを思うとこれまでの3年間が、より素晴らしい思い出として私の内に満ちあふれるのである。
 
 200種を突破してから、私は山を歩くときに鳥の図鑑はほとんど持ち歩かなくなった。鳥が鳴いてもいちいち何が鳴いているなどと意識しなくなった。勿論記録などは一切つけていない。それは鳥の種を追うことが私にとって大したことではなくなったというのだろうか。いや、「鳥」というものを全く意識せずして「鳥」を吸収することができるようになったということなのであろう。山を歩いていて、道ばたの白い花に目をとめる。何だろうと思ってじっとしている心に、身体に、鳥のコーラスが浸み込んでいるのである。昔、野鳥の会に入ったばかりの頃、いくら耳を澄ましても、先輩の指さす方向にセンダイムシクイやメジロの声を聞き出すことができなかった頃とはまるで違い、全く意識しなくても当然のように私の耳には鳥の声が、羽音が、実を砕く音が入ってきているのである。そしてそれをつい昨年までは、あ、あれはヒガラ、そして右のはアカゲラなどと頭の中で確認していたのであるが、今はその「確認」をしていないのである。確認をしなくても私にはアオゲラもミソサザイも無意識下で別個に浸透させているのである。「あれは何ですか」と尋ねられると、改めてその気で聞き直さなければならない。もう私には鳴いている鳥がモズでもチゴモズでもそれ程の意味はないのである。細かい分析は必要ないように思われる。しかしまだ私は鳥の生態のすべてを知ったわけではない。植物はまだまだ。昆虫、動物にいたっては手つかずも同然である。多摩川の自然観察会で子供達、お父さんお母さん達に自然の素晴らしさを見直してもらうかたわらまだ知らない自然を一つでも多く知ろうと努力しているが、この野鳥の会で鳥を追いに追ったおかげで、鳥の声が自然に感じとれるようになったのは大きな幸せである。
 
 鳥の名を知らなくても自然に入ることができる。自然を見ることはできる。しかし、鳥を知り、声を識り、植物を知り、虫の声を区別できるようになっている人が野山を歩くのと、そうしたことを何も知らないでただ自然に入ることを目的にハイキングする若人とは質的に異なるのではないだろうか。自然を愛する心は同じであっても、自然の中に入ったときの満足の質には雲泥の差があるのではないだろうか。
 
 私は200種というエポックを過ぎて、自分の自然観に決定的なものが加わったように思える。それは野鳥の会に入ったからこそ得ることのできたものであり、冒頭にあげた感激も野鳥の会で教えられたものである。そして、悲しいことに大学の4年間は後のこり少なく、無慈悲な社会の黒い汚れた手が私と握手するためにすぐそこまで伸びているのである。