(昭和47年12月執筆) アメリカの自然保護、(附)感想文

 
感想文

荒川洋一

 何とか製本の段階までもってくることができた。清書に入ってから(清書をしながら、後半の下書きをしたのだったが、)3ヶ月以上経ってしまった。途中、風邪やクラブ活動などで一ヶ月ほども卒論に手がつけられないことがあった。又、下書きには5ヶ月あまりもかかってしまったので、序論に入ったときの結論の展望と、終章を書く頃の考え方と、それをまとめる上ではかなり違ったものになってしまったようだ。
 はじめは自然保護と言っても何を書いたらよいか全くわからず、ただ公害関係の書なりを乱読しているだけだったが、次第に「アメリカの自然保護理念」について漠然としたイメージが浮かぶようになり、あとは夢中でここまでこぎ着けた。こぎつけたというより、こじつけたと言った方がよいかもしれない。とにかく、いま見るとこんなに厚いものになってしまい、正に「ウドの大木」で恥ずかしい。最初から通読してみると、書いたはずだったものが抜けていたり、何度も同じことばかり繰り返したり、余分なことを書きすぎたりで、全くどうにもならないものができあがっている。もう少し時間的余裕があるのなら、この原稿用紙の束をたたき台にして、あと百枚程度薄くした、いくらか満足感のもてるものに直したいのだが・・・。
 はじめは、「アメリカの自然保護」を書くことによって大学四年間に得た自然保護関係、アメリカ政治関係のそれぞれの知識を集大成し、大学時代に研究したもののモニュメントのようなものを手にするつもりであったのだが、この「ウド」を見ていると、それはとんでもない夢であって、階段で言うならやっと一段登れたかどうかと言うところだと気付くことになった。自然保護問題の広さ、深さがそれだけ著しいと言うことの証であろう。
 その奥行きと幅広さのせいか、卒論を書き上げて半ばがっかりし、空虚さを感ずると同時に、何となくこの問題に対して、更に突っ込んでいこうという情熱のようなものが心の底で動いているのを感ずることができる。
 さあ、この「ウド」を食べて残りの階段にアタックしなければ!
 
昭和47年師走
 
(全358ページ)

 
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