「野鳥の会と私」
慶応大学野鳥の会機関誌「エトピリカ」第7号(1970年11月発行)掲載


 
学生時代のクラブ活動の節目にあたり、入会から執筆当時までの私の考え方の変化を書いたものです。
 
野鳥の会と私

 
荒川洋一

 昨年の四月も終わりに近い頃、私は第二会議室での野鳥の会説明会に出てみた。なれなれしく話しかけてくる河野さん森田さん、そして私の名前を最初から違う人とごっちゃにして呼ぶ酒井さん、そしてまたオリエンの時に優しく説明してくださった平井さん酒井さん−−−この何となく親しみを感じさせるような人たちに魅せられて私が入会をしたといってもいいだろう。大学受験が終わり、第一志望校にパスしていながら第三志望の塾に来なければならなくなったとき、私は他の人たちよりも早く”五月病”にかかった。私は何のためにあんなに勉強をしてきたのだろうか、これから先一体何をして生きていったらよいのだろうかと毎日毎日自分に問うていた。あの頃の私は慶応大学なるものをよく知らなかったし、決して好きではなかったから、何をしても楽しくはなかった。そんなときである。野鳥の会なるサークルに入ったのは。野鳥の会のあまりになれなれしい二年生の先輩方に対して私はできるだけ自分を主張した。新入生歓迎の探鳥会の時に見たキセキレイの美しさに我を忘れると共に自分を主張する手段として鳥を覚えよく知ろうとした。なぜ自己を主張しようとしたのかはよく判らないが、入会当時から鳥や植物に詳しい林部をライバル視したと言うこともあったかもしれない。とにかく野鳥や自然のすばらしさを新たに認識することによって”五月病”は跡形もなく消えてしまった。
 
 はじめのうちは何もかも珍しく魅力に満ちていた。鳥を聴く耳は自然に肥え、眼は微かな動きにも合わせることが出来るようになった。夏休みに一人で入笠山へ行ったことで、それはますます強化された。しかし、鳥のことを知るようになるとそれだけ心は重くなった。人間の自然破壊の力が余りに膨大なので自然保護を叫ぶ胸の底に自分の力などごく微々たるものではないかという考えが少しずつこびりついてきたからである。秋になって気がついたときには最初に入会した会員の約1/3はやめてしまっていたし、これからやめるという人も出てきた。私が野鳥の会のことを考え出したのはその頃からであっただろう。ストの影響を受け、各学部の授業がまちまちだったので例会は行われず、13番教室へ顔を出すだけであった。春ほどは鳥を見に行く機会が多くないので、何となくけだるくなった。ある日裏山を回ってみたら、カスミ網がハンドボール場に二面張ってあり、カワラヒワが4羽それにかかっていた。私の心は怒りにふるえ、日吉の鳥だけは少なくとも護ってやらなければならないと考えるようになった。日吉の鳥調査を提案したのもそのためである。そして私は野鳥の会を何とかしなければならないと思った。
 
 私は日吉の代表として承認された。一年の時は代表になって思うままに会を操り、理想的なサークルにしようと夢見たが、現実はそんなに甘くはなかった。正直言って四月になってはじめて酒井さんのこれまでの苦労というものがわかったのである。いくら焦ってみたところで、多くの個性は私の思うとおりになんぞ動いてくれない。私は一年の時に感じた以上の無力さをしみじみと味わった。私の考えの甘さを責めた。どう考えても酒井さんが受け継ぎ成長させただけのことさえ私には出来ないことだということがわかってきた。何度も投げ出したくなったが、笹本・北原の励ましによって何とか捨てずにやってこれた。一年の時に楽しく鳥を楽しみ、自然の美しさを味わった素晴らしさは、今年になったら半分も感じることが出来なくなってしまった。自分の無力さに嫌気がさしたことと、鳥に対して”慣れ”てしまったために、特に大勢で出かけたときなどゆっくり姿を観察し、その一つ一つの動きに感動することが出来なくなり、どちらかというと珍種に期待をかけるような傾向が出てきたのである。
 
 そして合宿があった。私の好きな合宿ではなかった。戸隠での最後の晩に私は貴重な経験を多くした。特に河野さん三間さんと三人で話をしたことは、私に決定的な影響を与えた。あの時涙が出てきてとまらなかったのは、三間さんの自然破壊を憎み、「鳥が好きでたまんないんだ」という言葉や、私の母のことなどを気づかって下さったことに感動したからだと思う。そして、その時の三間さんの言葉によって私の心に勇気の芽が出、また同時に、あまりに微力な私がどん底にまでたたき落とされた。

 合宿が終わり、私に考える時間が与えられた。落胆した私をどうしたらよいかということ、そして野鳥の会を良くするにはどうするのが一番良いかということである。秋になっても今年の一年生はあまりやめない。新しく入った二年生もやめない。私は彼らがどうしてやめないのか不思議でならない。なぜ野鳥の会に入ったのか。どうしておもしろくもない例会にのこのことやってくるのか全くわからない。なぜなのだろう、どうすればいいのだろうと首をかしげていたある日、笹本から私に電話があった。今度の総会で私が代表に立候補する意思があるかどうかということであった。私はそれまでは来年は絶対に代表にも何にもならないぞと思っていた。彼の電話によって私は改めて自分を考えてみた。野鳥の会を考えてみた。どうして野鳥の会にいてなぜやめないのかを考えてみた。そして、まだ結論は出ないが、何となく野鳥の会を次のように見たらどうだろうかと思った。
 
 野鳥の会を何かにたとえるとしたら、今新宿で建築中の京王プラザホテルのようなものがよいだろう。三間さんの代で太い鉄の骨組みが出来、酒井さんの代ではアルミニウムの板で外装が完成してきたのだから、我々の代では徐々に内装が完成して行かねばならない。内装ができあがっていくと、個々の部屋がだんだん部屋として活用されるに足るものとなっていく。今までは全員が会の建設と固定に躍起になっていて会員各個については恐らく何もできなかった。各自が自分の持ち場についていさえすればよかった。だがこれからは一つ一つの部屋の個性をうまく生かしながらビル全体ではホテルとしての機能を持たせなければならないと言うこみ入って難しい段階に入る。これまでより一層デリケートな段階にはいるのである。それには会員同士のつながりが密接でチームワークがうまくとれていなければならない。野鳥の会という組織は大学のサークルでは日本一大きいものとしてできあがったのだから、今度は会員が会員としてその組織の中で自分をうまく生かして行かねばならないのである。来年は骨組みを造った先輩方が一切の工事から手を引く。そして我々は外装にあたった先輩方が見守っているうちに内装の工事を完成させるべく動き出さなければならないと思う。ホテルの内装は他のビルよりも時間がかかる。それはそれぞれの個室・会議室などを入念に造っていくからである。我々の代で内装が終わらなかったとしても、てきぱきと仕上げることが出来ないと、ホテルとして営業することが出来ないのである。
 私は野鳥の会をこのように考えている。だから内装工事の現場監督となる自身が出来たら、次の総会では立候補するだろう。だが、今度の仕事は今まで私がお手伝いをしてきた外装より比較的難しいようだ。どうなることやら・・・
 
 私は野鳥の会会員として自分が野鳥と自然に、自由に気楽に親しみ、それの美しさを満喫し、腹の底から大声で笑える楽しさを持ちたいと、これだけを望んでいるのである。