(昭和47年12月執筆) アメリカの自然保護、
第三章 アメリカの自然保護の独自性
第一節 アメリカの自然保護の独自性を形成する諸要因
    三、連邦制度と地方自治


 

 
三、連邦制度と地方自治

  アメリカは史上最も古い連邦国家である。連邦制度は政府への過度の権能の集中に対するアメリカ人の伝統的な不信感、言葉を変えて言うならば、相対的独立性を有する複数の政治単位の間に権能を分割しておくことに対するアメリカ人の伝統的信頼感を制度的に最も良く体現したものの一つであるといわれている。この連邦制の精神は自然保護の行政にも反映されていて、ときにはスムーズに、ときには足を引っぱるような要因として作用している。
 第二章第一節でふれたイギリス政府への反抗から始まって、アメリカ合衆国憲法は州の第一次的統治権を尊重する地方分権や人民主権の原則を確認している。(第4条)当初は極端なほどにこの地方分権の体制が貫かれていたが、人口の激増、産業化、テクノロジーの発達などの諸要因が伝統的に州の管轄下におかれてきた諸問題を全国的な広がりをもった問題にまで発展させ、そこに連邦政府の介入を導いた。このような動きは19世紀後半から今世紀前半にかけて徐々に表面化したが、第一次大戦と大恐慌、ニューディールを経て、全面的に表面化した。即ち、それまでの「対立的」な連邦主義から「協力的」な連邦主義に移行してきたのである。
 汚染問題は元来地域的な問題である。しかし、上にあげたような諸要因は、汚染問題も広域化させ、単に地方だけの対策では間に合わなくなってきた。即ち、連邦主義が州政府との協力的なものになっていった過程とは似通った道を歩んでいるのである。
 けれども、地方分権的伝統的な連邦制の精神は、今世紀になっても汚染問題にマイナス要因となって作用する場合がある。連邦制度をとっているが故になかなか環境行政が思うようにいかない場合があるのである。
 1960年代後半における、連邦政府の公害問題に対する強力な推進に対して最も顕著に反対の態度をもっていたテキサス州の次のような意見はこの行政を連邦単位で行うことの難しさを示す一例となるのではなかろうか。
  1. 最近連邦政府が公害問題に介入してきたことは不幸なことである。
  2. 連邦政府が地方の問題に口を出すべきではない。州政府の分析方法が間違っている場合にそれを直す程度にすべきである。
  3. 連邦政府と州政府などとの緊密な連絡ができていない。
  4. 地方の事情に通じない人達が地方公共団体に対する補助金制度を運用していることは金をかける割に効果が上がらない。
  5. 連邦政府からの補助金をもらうには、まず予防プログラムを組む必要があるが、この際、州のプログラムの内容が適切であっても連邦政府公衆保健局の許可がなければ補助金が得られない。
  6. プログラムを実行に移す場合、途中でプログラムが間違っていたことを発見した場合でも連邦政府公衆保健局が変更を許さないので間違いがわかっていながら工事を続行しなければならない。
  7. 連邦政府にあまり強い権限をもたせすぎている。
 また、1965年水質法でもこの連邦政府の立場の弱さを知ることができる。
 この当時における連邦の強制手続きは、
 @関係州および州際機関との協議
 A保健教育福祉省(以下HEWと略す)長官の任命する聴聞委員会における公聴会
 BHEW長官の要請によって司法長官の行う連邦裁判所への訴訟提起
 といった三段階からなっていた。
 連邦水質汚染規制法は規制活動((特に強制措置)の基準となる水質基準に関する規定を欠いていたので、1963年にはHEW長官に直接に水質基準設定権限を与える旨を規定した法案が、上院を通過したが1964年には下院で否決されてしまった。この1965年水質法でも水汚染規制管理所の設置と水質基準設定の二条項が問題の中心となった。特に後者については州および地方当局ならびに生産会社からの強い反対を代表する意見があった。
 その反対の理由は
 @この規定は州および地方汚染規制局から権限を奪うものであること。
 AHEW長官が各河川や水域の自然条件および利用状況の差異を考慮しないで一律に水質基準設定するのではないかという懸念があること。
 であった。
 その結果上院に提出された法案では何ら州の行為を要しないで長官に州際河川の水質基準を設定する権限を与える旨が規定されていたが、下院でこれを修正して長官にこの直接的な権限を認めず第一次的には州による水質基準設定を要求する規定とせざるを得なくなってしまった。
 また、1961年法を改正した点でもある条項即ち、住民の健康および福祉に危害を与える州際河川の汚染の除去をはかる連邦の強制手続きは航行可能な州内および沿岸河川に対しても適用されることになった条項だが、それに但し書きがつき、汚染発生活動の停止を求める連邦の執行訴訟は州知事の同意を要することになり、連邦が強い措置をとるのも、地元の同意がなければならないという事実上の骨抜きにならざるを得ない状態であった。
 以上のような例で見られる連邦政府の弱さは第二章第四節の「生態学とテクノロジーアセスメント」の時代に入ると住民の意識が変化したためマスキー法や水のマスキー法で見られるように、それ程弱いということはなくなったが、そのことは連邦の環境保護局など機構面での整備がなされたということの成果だけでなく、もはや単に一地域だけでは汚染問題が解決できず、連邦のレベルである程度の強制をもってしても規制しなければ防ぎようもなくなったということを示すものであろう。
 アメリカでは汚染に対する規制の権限は連邦政府のそれを拡大しつつも、合衆国の憲法および各州の憲法によって州の立法府に属しているので、日本の「公害基本法」的なものはアメリカでは存在し得ない弱みがあるのである。
 
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