(昭和47年12月執筆)アメリカの自然保護、
第三章 アメリカの自然保護の独自性
第一節 アメリカの自然保護の独自性を形成する諸要因
 二、産業革命とアメリカンシステムによる工業化


 

 
二、産業革命とアメリカンシステムによる工業化

  アメリカの工業化は現代の国際社会において、ほとんど全世界が影響を受け模倣しており、それによって今日の産業公害が起こることになったのでアメリカの工業化について見ていく必要がある。
 アメリカには昔からの村落共同体は存在せず、封建的政治制度は無かったので、工業化も他国とは違う道を選んだ。また、労働力が足りなかったために工夫がなされ、省力化中心の工業化を行った。
 1783年にアメリカが独立して最初に行った政策は、国内手工業をヨーロッパ諸国から護るための国内産業保護の体制づくり(ハミルトン体制)であった。
 アメリカの産業革命前には、ニューイングランドのロードアイランド地方を中心としてイギリスの綿業をコピーした形で行われていた綿業を中心とする工業化があった。種々の機械を導入したが、このロードアイランド型綿業はハミルトン体制下においてもイギリスと対抗することができなかった。
 1810年代に、ボストンの西ウオルサム地方において水力を中心とした大規模な綿工業が発達した。このウオルサム型の綿業は、アメリカにおける労働力不足を最初から補おうとする努力が見られた。それは徹底した生産工程の機械化が図られ、それと同時に綿業を行っていくうちに必要な仕事を分業化するという形で専門化していった。そして、それらを政策から販売まで一貫した経営で組織化していった。不足した資本を調達するために新しい仕組みである、ボストンの商人、金融業者を中心とした株式会社制度が成立し、規模の大きな工場もできるようになった。こうして大量生産の体制と綿業の集中化が行われ、ウオルサム型綿業はヨーロッパに充分に対抗することができた。
 こうして切られた産業革命の口火は独立戦争の前後に兵器工場の必要性から、アメリカ工業化の第二の要素が生まれた。兵器は多くの部品からなっているので、その点に注目した部品互換性という生産様式を新たに考え出すことにより、大量生産の実をあげようとしたのである。
 独立戦争後もこれが踏襲された。部品互換性を満足させるためには工作機械の精密さが要求される。そこで工作機械、工具、測定具などの製作が進行し、1818年に、平フライス板が発明されたのをきっかけに、1830年代頃まで工作機械専門メーカーのブームになったといわれる。 部品互換性は製品を標準化することになり、流れ作業を可能にし、大量生産に拍車をかけた。大量生産が行われると大量の市場が必要になり、鉄道網が発達し、鉄鋼業がブームになり高度に効率化され、その結果、市場も拡大していった。
 作業を分割せよ、生産を倍増せよという至上命令はアメリカ工業化のアメリカ的システムを特徴づけるものとなった。アメリカでヨーロッパ諸国に見られないこうしたアメリカンシステムの工業化が行われたのは、建国当初における生産様式の真空状態が原因となっている。また、絶えず流入してくる移民は労働力、市場を提供し、ローンの仕組みが発達することによって大量消費様式が確立された。
 他の資本主義国がアメリカに対抗するためには国際競争の場でアメリカ方式に変化せざるを得なくなっていき、アメリカンシステムを踏襲できなかった国(例:イギリスなど)は国際的に脱落していかざるを得なかった。薄利多売は他の様式よりも優位に立ち、資源の収奪が大量に行われることになり、産業公害が急速に広がっていくのである。
 大規模に生産し、コストダウンすることにより、使い捨てという無駄な消費が行われていった。ヨーロッパの場合はアメリカほど徹底した大量生産ができなかった。これは、アメリカが無限の資源・市場・自然に恵まれているという基礎によるためであった。
 1930年代前後から自動車産業が工業化をリードするようになり、社会的に必要な自動車だけを供給するというのでなく、あってもなくても良いような自動車も過剰に供給することになり、自動車王国アメリカが誕生するのであるが、自動車の排気ガスによる二次公害が急速に拡大発展していったのである。
 
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