(昭和47年12月執筆) アメリカの自然保護、
第一章 欧米的自然観と日本的自然観、第一節 欧米と日本


 

 
三、ヨーロッパと日本の自然保護に対する
考え方の違い

  一、二、で見たように自然に対する考え方はヨーロッパと日本とではかなり異なる。自然と相対して自然を利用してきたはずのヨーロッパ人は、実は今日における自然保護思想の源流に立っていると言っても過言ではないほど早くから自然の保護についての考え方が芽生えてきている。
 すなわちそれは、すでに15世紀の終わり頃ゴチック派の画家たちの美しい景観を、ただ絵に描くだけでなくて残していきたいという審美的な自然保護からだんだん発展していくことになり、産業革命の時になると多様な自然が画一化されるので学術研究対象がなくなる、或いは郷土の自然がなくなるというので、ドイツにおいて1800年代の後期からハイマーシューツ(郷土保護)という立場の自然保護論が出てきた。1900年代になると、学問的な自然保護論が登場してきた。それは例えばイギリスのナショナルトラストやドイツの自然保護連盟やスイスの自然保護連盟など個々の自然保護または郷土保護に対する集団が一緒になって、それぞれの国なり或いは国が集まって自然保護の問題を本格的に考えはじめたものであった。それがヨーロッパ諸国の中でもドイツにおいて先んじて議会にとり入れられ、1935年に帝国自然保護法という法律が成立するにいたった。これは、第二次世界大戦後になるとさらに、ヨーロッパ全体の自然保護について考えるものとなっていくのである。
 
 このようなヨーロッパの保護の歴史と比較して、わが国の自然保護の考え方の遅れが痛感させられるが、なぜこのようなことになったのであろうか。先にあげた池田真次郎博士はこの回答を欧米人と日本人の伝統的生活様式の違いに求めている。
 欧米人の生活は個人が単位で、家族の構成員は個々の部屋をもち、自らの世界をそこにつくっているような様式をとっている。その結果当然発生してくる個人の孤立化を防ぐため共有の場所、すなわち、食堂、サロンというような場所をもって、社会的な連帯性のあり方についての教育がなされる。食堂、サロンが社交の訓練場となり、個々の人間が集まって社会をつくる基本的なしつけが養われる。しかも、その場所は野外の道路につながり、公園、公共物のある場所への連帯型をとって公共的な地域での共同生活の基本的な必要要素を身につけている。だから、自然物、公共物に対する心構えは、家庭内のことがらと変わることもなく、相対することができる。
 しかしながら日本では、家族制度という形で、家族を構成する人員間では、順位とか戒律というもので厳格に礼儀作法を身につけているが、個々の人間の団体化の基本的な訓練とは異なった形をとっている。すなわち、欧米人では上下関係または左右関係が広く連帯感をもつように訓育されているが、日本の場合には、上下関係での連帯感の方が強くもたれるような生活態度がとられていて、社交というように外部に向かっての連帯性の主体は、家長とか家族の中に内在する階級的な習慣の範囲内での交渉という形でしかもたれていなかった。
 要するに、外部に対しては閉鎖的な家族という単位が基になって、異なった環境にある自由な個人が集まって、一つの集団的な動作をするという形での訓育はなされなかったと考えることができる。家を囲む塀が他の世界との境で、一度その外に出て家族という一団の生活体の道徳律から解放されたときは、公共性に対する義務感とか犠牲感というような感覚がうすい個人と化してしまう。むしろ、多くの場合、解放感の方が強く出て、いわゆる公徳心のうすい個人の集団と化すおそれがある。
 これが自然に対する日本人の感覚と欧米人のそれとの基本的な相違となって、種々の現象で露呈される。具体的に言えば、公共物を粗末に扱ったり、自然を全く無意味に破損する所以になっている。近年問題になっている日本人のモラルの低下ということは、本当は低下ばかりではなく、池田博士に言わせるなら、日本人には生活そのものの中に、そうした訓育がゆきとどいていないのだということになるのである。
 
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